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「乃井くん、泊まってくでしょ。お風呂の準備するね」
止める間もなく氷沼くんは軽やかに行ってしまった。
氷沼くんのやんわりと強引なとこ、結構好きかも‥‥。なんて思ってしまうのは、既に彼の気持ちに流されちゃってるってことなのかなあ?
「用意できたよ。入りなよ」
会いに来てよかった。たっぷりの湯に浸かって、心底そう思った。
安心して脱力したその時だった。
いきなり腰の力が抜け、尻が滑ってぼくは頭まで湯船に落ちてしまった。
何でっっ、何でっ!
「―─っっ!! ! っっ!」
焦ってもがいても、腕が水面で飛沫を立てるだけ。熱い湯が目鼻に入り込んでくる。
何とか底に肘を付き、腕で体を起こそうと思ったけど体を支える手が滑ってしまった。ダメだっ。腰に力が入らなくて体を立てられない。
「――!!」
やだっ、溺れるっ!
息が‥‥! 手だけで暴れるしかなかった。バシャバシャと水の中にも音が反響する。
気付いて、氷沼くん―――‥‥
(乃井くん‥‥乃井くん)
痛いよ、叩くなよ‥‥。
頬に感じる衝撃と、ぼくを呼ぶ声がシンクロしてる。
「乃井くんっ」
痛いってば。
目を開けると、氷沼くんがぼくを叩こうとしてた。
「なに、すんだよ‥‥氷沼くん‥‥」
「乃井くん! ああっ」
肩を落とす彼。
あれ、水は‥‥? どうなったんだ?
「ぼく、溺れてた‥‥?」
「うん。下半身、また麻痺したんでしょ? 最初水で遊んでるのかと‥‥。呼んでも返事ないから覗いたら乃井くんの手しかないんだもん。驚いたよ」
氷沼くんはぼくを風呂から引き上げ、溺れて飲んだ水を吐かせてくれたらしい。
「ぼくも驚いた‥‥。風呂ん中で発作起きたことなかったし」
「反省してる。お湯の量多すぎたね。今度溺れそうになったら迷わず風呂の栓抜いてよ。ぼくがいない時とか危ないから‥‥」
そうだね。一人の時がこわいな‥‥。
「乃井くん、これ、家の前で暴れてた時つけたの?」
氷沼くんが指差したのは、ぼくの両足についた打撲の痕だった。足全体に、特に両腿多く付いている。
「‥‥だろうな」
「どうしてこんなになるまで‥‥」
あの時、殴っても感じなかったからめちゃくちゃ叩いてたもんな。
ってか、ぼく全裸だし!
彼がぼくの足をさする。感覚も感触もない。
「お風呂、出る?」
ぼくは頷いた。
「まだ動かない‥‥」
彼は理解してくれて、タオルを取ってぼくの体を拭き、抱っこしてリビングに運んでくれた。替えの服を着るのを手伝ってもらう。
「ありがと、氷沼くん」
「いいよ。‥‥見れば見るほど痛々しいなぁ。湿布買ってくるよ」
ぼくは出て行こうとした彼の袖を反射的に掴み、引き止めていた。
「大丈夫。ほっときゃ治る。‥‥そ、そばに、居てくれ。」
この時はじめてぼくは、言いたくてずっと言えなかった言葉を、言えた。
ぼくはずっと心細かった‥‥。氷沼くんがぼくのために奔走してくれるたび‥‥そういう時にこそ、そばに居てほしかった。
「乃井くん‥‥」
彼はぼくの両手を握り、ソファに座っているぼくの前で立ち膝の格好になった。
氷沼くんっ! 目の前にいられると恥ずかしいってば‥‥! ぼくが照れてるのを知ってか知らずか、彼はじっと、でもどこか嬉しそうにぼくを見つめてくる。そりゃそばに居てくれっては言ったけどっ。
「‥‥近すぎっ」
「そんなことないよ」
「あるの。」
「そばに居るよ」
だからって手を握ることはないだろ。
――ふぅ。
ぼくは一呼吸した。彼の視線に耐えられなくなり、目を外す。
「‥‥取り残されていくみたいで恐いんだよ。下半身が眠っている間、時間が止まってるみたいで」
健常者とも障害者ともいえない体が憎らしい。
何でこんなことになってしまったのかと、過ぎたことをいつまでも引き摺っているぼく。いっそのこと完全な下半身不随になってしまえたなら‥‥きっとふっきれてるのに。
「不安だったんだね」
彼に握られた手が温かい。
「さっき氷沼くんは自分の愛は重いって言ってたけど、‥‥今のぼくにはくすぐったい」
その重さっていうものに慣れてしまっただけなのかも知れないけど。だけど、将来に絶望して自暴自棄にならずにいられるのは、彼というクッションがあるからなのかもな。
「きみが好きだよ、乃井くん」
一呼吸置いて、彼がぼくにわからせるように言った。
「何回も聞いたよ」
「きみがいい。ぼくを選んでくれた‥‥」
氷沼くん‥‥。
まるでぼくしか見えていないかのような氷沼くんに、ぼくは言わなければならないことがあった。
「なあ約束してくれ。ぼくのためにきみの人生を棒に振ることだけは、しないで。お願いだ‥‥」
こんなぼくのために、きみの時間を無駄にしないで。
氷沼くんは優しい眼差しでぼくを見詰めてきた。
「ぼくはね、乃井くん。できることならぼくの人生をきみに捧げたいと思ってるんだ。そしてきみの人生の全部とは言わない、一部だけでもぼくにしてほしい。誤解しないでね。ぼくはきみのために生きていたいんだ。だからきみのためにすることならどんなことでも棒に振るなんてことはないよ」
彼の言葉を聞いて、無常な寂しさが込み上げてきた。
「でも‥‥っ、きみはいつでもぼくを見捨てられるのに。勝手にこんなにぼくの人生に入り込んできて、後から逃げられたら‥‥ぼくはっ」
彼が手を握る力を強くする。
「乃井くんを見捨てるわけない。逃げるわけない」
「イヤだよ‥‥」
ぼくはうつむいた。不安で胸が締め付けられる。
「そんなにぼくが信じられない!? なら言う! ぼくがきみを逃がさないよ! きみこそぼくを見捨てないでよ」
氷沼くんが荒立てた声に驚いた。
彼の叫びは、ぼくの不安だった気持ちまで吹き飛ばしてしまった。
「そ、そんなことするわけ‥‥、できるわけないじゃないか。一人になりたくてもできなかったんだぞ!」
きみから離れようとしたのはぼくなのに、ぼくの方からきみに会いに来てしまった。きみがいない1日が長くて‥‥長くて。
「‥‥ねぇ乃井くん、本当はぼくのこと好きなんじゃない?」
「友達としてなら大好きだよッ」
ぼくは氷沼くんを睨みつけた。顔が火照ってるのが自分でもわかる。穴があったら入りたい気分だ。
そんなぼくを見てほほ笑んだ彼は、ぎゅっと目をつぶり体を震わすと、今度はぼくの羞恥心まで吹き飛ばす発言をした。
「あーどうしよ。めちゃくちゃ抱き締めたい! ハグしたいっ」
ハグってオイオイ。こういうところ、許せてしまうぼくもぼくだ。
「‥‥友達だって、普通にハグ、するんじゃないのか」
「乃井くーん!」
彼が嬉しそうに跳び付いてきた。はは、このなつっこい虎め。
さっき部屋の前でふんわり包まれた時とはまるで違う、力のこもった抱擁は、ぼくの内に不思議な感情を生み出した。
ハグなので、ぼくも彼を抱き締めてやる。
あーあ。人間てこうやって流されていくのかな。
こんな好意でぶつかってこられたら‥‥うん。普通の人間は引くよなぁ。平気なのはバカ正直な奴か逆に鈍感な奴か、ぼくみたいに不安定な奴くらいかも。
「‥‥ぼくを、見捨てないでね」
ごく小さく、氷沼くんが囁いた。彼も不安なのだろうか。
それは、きみの願い‥‥?
「氷沼くんは、ぼくを逃がさないんだろ。たのむよ」
そう言ったら、彼はゆっくり体を離して「‥‥うん‥‥!」と頷き、にっこりとほほ笑んだ。
体の感覚も戻ったぼくは氷沼くんのベッドを占領し、氷沼くんはソファで一夜を過ごした。
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