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4月のある日、ぼくは交通事故に遭った。
事故当時は下半身が完全に麻痺していたが、ぼくの場合幸いなことに仙髄健存の不完全麻痺で、2ヵ月の入院で全身の感覚知覚が回復していった。
回復後は普通の生活に戻れていたんだが‥‥ぼくの体は完治したわけではなかった。突発的に下半身麻痺になってしまうという障害が残っていたんだ。
障害が発現したのは、仕事に復帰してから2週間経った頃だった。
会社ビルで自分のオフィスに向かっていた時、登り階段の途中で“ひざかっくん”を不意打ちでくらったときのように突然へたり込んでしまったんだ。
ぼくは愕然とした。
下半身にまるで力が入らない。──‥‥動けない。
ぼくは何とか体勢を変え、腕だけで下半身を引き摺り階段を登った。
どうしよう‥‥! ぼくの頭はその言葉でいっぱいになり、全く動くことができなくなっていた。
その時だ。彼、氷沼奏路(ひぬまそうじ)から声を掛けられたのは。
背後から駆けて来る足音が近づく。
「どうした!? 具合でも悪いの!?」
真っ白になっていた頭に血の気が甦った気がした。

「あ‥あの‥‥っ」
ぼくは差し伸べられた手にすがりついていた。
「動けないんだ‥‥いきなり‥もうっ」
言葉が繋がらなかった。そのくらい動揺してたんだ。
それで通じたのか分からないけれど、彼はまだ階段に投げ出されていたぼくの下半身をフロアまで上げてくれ、ぼくが落ち着くまでついていてくれた。触れられている肩が温かかったのを覚えている。
「大丈夫? 落ち着いた?」
「うん‥‥」
「ねえ、もしかして下半身の感覚ないんじゃない? 持った時そんな気した」
「突然動かなくなったんだ。もうどうしていいか分かんなくなっちゃって‥‥。助けてくれてありがとう」
「どういたしまして。1課の乃井絢都(のいけんと)くん、だよね?」
「なんで‥‥ぼくの名前」
「2ヵ月前事故に遭った乃井くんといったら、下半身不随から復活したって有名だよ」
「はは‥‥。ぼく有名人なんだ」
「病院、行くんでしょ。救急車呼ぼうか」
「いや、そんな大袈裟じゃないよ。課に戻りたいんだけど手伝ってくれるか?」
ぼくは彼に抱っこされて(この時は死ぬほど恥ずかしかった!)1課に戻り、課長に事情を説明した。課長も課のみんなも心配してくれ、ぼくは早退で病院に行くことになった。
「よければぼくが病院まで送るよ」
彼はその場にずっといてくれて、そう言って名乗り出た。「今日の仕事は片付いてるし、飛び込みで仕事が入らなければ終業まで暇あるんだ」という彼の言葉を受けて課長が後押しをし、ぼくは彼の言葉に甘えることになった。
ソファに座りながらも、下半身はまったく反応がない。事故に遭った時のように、下半身だけ別の生き物になってしまった‥‥。
1課のみんなに正面玄関まで運んでもらったぼくは、彼が回してきた車に乗り込んだ。
「すまない。世話になります」
「いいよ、ぼくが言い出したんだし。それより体治ったんじゃなかったの?」
「そうなんだ。回復したはずだった。なのに‥‥何で突然」
そう言ってひざを握った瞬間、圧力がひざに伝わった気がした。
「どした?」
「今、感じた」
もう一度握ってみた。‥‥鈍くだけど、感じてる。
「感覚、戻ってきたかも」
「本当?」
ぼくは頷く。シートに座っている感覚も、ある。
「足動かせる?」
言われたとおり、意識してみる。──‥‥動いた!
「よかったね乃井くん!」
彼は我がことのように喜んだ。
病院に着くと、彼は素早く車から降りて助手席側のドアを開けてくれた。ぼくは恐る恐る足を出す。
「つかまって」
彼はしゃがんで肩まで貸してくれた。
腰に力を入れる。そっと‥‥立ち上がる。彼が少しだけ補助してくれたが、どうにか自力で立てた。
足を一歩踏み出す。入院中のリハビリを思い出す。
「乃井くん歩けるじゃん! よかったー」
彼につかまりながら受付を済ませ、診察を受けた。
先生の話では、今後また突発的に下半身麻痺になる可能性がある、とのことだった。最終的には車椅子になるかもしれない、とも。
だが一時的なものかもしれないので、様子を見ることになった。定期的に通院し、小さなことでも異変があったら来院するよう言われて、診察が終わった。
「車椅子にはなりたくないなあ」
それが正直な気持ちだ。
「でも乃井くん、もしまたどこかで今日みたいなことになったら‥‥」
「恐いことを言う人だな」
「実際そうでしょ?」
「それは‥‥そうなんだけど」
だよな。彼に言われるまでもなく、現実問題としてありうるんだ。もし助けも呼べないところで麻痺したりしたら‥‥うわぁ、考えたくもない!
しょげてしまったぼくを誘ってきた彼の表情と声は明るかった。
「乃井くん、夕御飯一緒しない? いいよね。知り合ったお祝いもしよう!」
ねっ、と笑う彼につられて思わず頷いてしまったけど‥‥知り合ったお祝いって何だ?
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