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◆◇◆
この頃のぼくはたぶん出社拒否症になっていたんだと思う。会社も休職扱いになり、ひと月経った頃には退職してしまった。
氷沼くんへの引け目から外出もできなくなってしまったぼくは、家に引きこもりになった。外に出なければ突発の発作があってもさほど心配ない。
時々氷沼くんが電話やメールをくれたり、ぼくの分の買い物をしてきてくれたり、毎日のように氷沼くんがごはんを作りに来てくれたりして。‥‥見事に氷沼くんがぼくの生活に入り込んでいた。
「氷沼くん、しばらくぼくを一人にしてくれないかな」
いつものように会社帰りにぼくの部屋に寄り、一緒にごはんを食べている氷沼くんに、ぼくは言った。もう我慢の限界‥‥! そう、この時気付いたんだ。ぼくは尽くされることに我慢してたんだってことに。
氷沼くんは箸を休めて言った。
「昼間はいつも一人でいるじゃない。‥‥もしかして、ぼくが毎日来るのめーわく?」
「そんなんじゃない。氷沼くんにはすごく感謝してる。してもし足りないくらいだよ」
「知ってる。乃井くんがぼくに感謝してくれてること。でもそんなに畏まらないでね。これはぼくが好きでやってることだから乃井くんは気にしなくていいんだ。それが迷惑だったんなら謝るよ」
「だからそんなんじゃないって‥‥。ただぼくは‥‥できれば普通に生きていたい。人の手を煩わせたくないんだ」
「乃井くん、きみは自分の体のこと判って言ってるの? 普通に!? 人の手を煩わせたくない!? 下半身不随になるかもしれないんだよ!? そんな爆弾抱えて何言ってるんだ! ぼくはきみと友達になった時甘えてくれていいって言ったはずだ。ぼくはきみの助けになれて嬉しいって思ってたのに!」
そうぼくを怒鳴りつけて、氷沼くんは部屋を出て行ってしまった。
後にも先にも、人に怒鳴られたにはこの時だけかもしれない。
それから2日経っても3日経っても氷沼くんは部屋に来ないどころか、電話やメールもくれなかった。
ぼくは念願の一人になれたというのになぜか落ち着けず、夜もあまり眠れなかった。この3日の間に2回突発の下半身麻痺にもなった‥‥。
ぼくが素直に氷沼くんに甘えていれば彼を傷つけずに済んだのだろうか。
「おなかすいたなぁ‥‥」
食べようにも家には水しかない。米もこないだの食事のが最後だった。
氷沼くんの言うとおりなんだよな。ぼくはもう普通に生活できないんだ。こんな体になって精神病まで抱えてるっていうのに、ぼくはバカだった。自覚が足らなすぎた。
氷沼くんに謝らなきゃ‥‥。
そう思って彼の携帯に電話をしてみた。仕事は終わってる時間だ。
彼は出なかった。10度コールが鳴り、不在のメッセージが入った。
どうしたんだろう。
メールはだめだと思った。言いたいことは口で言わなきゃ。
もう一度かける。‥‥つながらない。
なぜかすごく氷沼くんに会いたい気持ちでいっぱいになってた。
「どこにいるんだ氷沼くん‥‥。会いたいよ」
ぼくは約2ヵ月ぶりに靴を履き、部屋の外に出た。
氷沼くんの家には行ったことがある。ぼくん家からは4キロくらいのところにあるんだ。
風が少し冷たい。道端には落ち葉が吹き溜まり、季節は秋なのだと教えている。
空気ってこんな匂いだったっけ‥‥。見上げた空は高く澄んで、夕暮れに包まれていくところだった。
ぼくが事故にあったのが4月。退院したのが6月。発作が出始めたのが7月、氷沼くんと会ったのも7月。ぼくが出社拒否になったのが8月。引きこもってから2ヵ月‥‥。そうか、もう10月なんだ。
歩きながらもう一度電話してみた。やはりつながらない。
4ヵ月間ほぼ毎日顔を合わせていた彼の存在の大きさに、今ごろ気付く。たった3日会っていないだけなのに、どうしてぼくはこんなに不安なんだろう‥‥。あれがはっきりとしたケンカ別れだったなら‥‥ぼくか彼、どっちかがすぐに折れてたかもしれないけど。
ぼくたちのはお互いの理解不足ってやつで、ぼくが彼を理解しようとしてなかっただけなんだ。
でも会ったところで彼になんて言えば‥‥。ただ会いたかったなんて言ったら笑われるだろうか。
階段を上って氷沼くんの部屋に着いた。
ドアホンを押す手が緊張で震える。押して待ってみたけど、彼はまだ帰ってないらしい。
「氷沼くん‥‥」
どうして来てくれないんだ。今何してるんだ‥‥? ぼくがバカだから友達でいるのが嫌になったのか? 何か言ってよ。嫌いなら嫌いってはっきり言ってくれたほうがまだマシ!
‥‥でも本当にぼくのことに幻滅してるんだとしたら‥‥?
会えない不安が大きくなっていき、いたたまれず家に戻ろうとしたその時、ぼくは急な発作に見舞われた。
「なっ、こんなとこで‥‥!」
崩折れ、動けない。氷沼くんの部屋のドアの前にへたりこんでしまった。
なんだよ! このクソ下半身! こんなとこで眠るなよ‥‥!
自分が許せなくなり、足を何度も殴りつけた。
‥‥痛みがわからない。殴られてる感覚もない。
くそ‥‥っ!
ちくしょ‥‥!!
「乃井くん‥‥!? 何してんの?」
殴打する腕を止められた。
「!? 氷沼くんっ! このバカっ」
ぼくは彼にも殴りかかっていた。何やってんだ、ぼくは。
腰の入ってないパンチなんて全然効かない。彼は暴れるぼくの両腕をいとも簡単に押さえつけた。
「どうしたの乃井くん、外出ても大丈夫なの? ‥‥ってか何でうちにいるの‥?」
「来ちゃいけないか? きみが来てくれないから‥っ。電話もつながんないし! きみに謝らなきゃって‥会って謝らなきゃって思って‥‥来たのに! ちくしょうっ、このバカ!」
腕を彼に封じられたまま、ぼくは言葉を吐き捨てた。自分の足に言っているのか彼に言っているのか、自分でもわからなくなっていた。
「乃井くん‥‥」
「早く助けてよ氷沼くんっ。帰ろうとした途端このバカが眠りやがって‥‥」
彼の胸に頭を押し付けた。
「えっ、発作起きてたの!? そんなに暴れてちゃわからないよ。落ち着いてよ、乃井くん。ぼく、来たから‥‥」
ぼくは彼に、ふんわりと包まれた‥‥。
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