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◆◇◆
氷沼くんと友達になって1ヵ月。たまにドライブに誘われ、気分転換で一緒に出かけたりしてぼくたちは徐々に親しくなっていった。
その間、ぼくは普通に生活し仕事もしているつもりだったのだが、結局7回発作を起こして会社、上司、同僚、一番は氷沼くんに迷惑をかけてしまっていた。
氷沼くんは課も違うのにぼくのヘルプ役を買って出てくれ、通院の足にもなってくれた。
──‥‥このままじゃ、いけない。このままみんなに迷惑をかけるわけには‥‥。
やはり車椅子になるしかないのだろうか‥‥? でもすぐに歩けるようになるんだぞ。ぼくは普通に歩けるんだ‥‥!
氷沼くんに、他の人に、迷惑をかけたくない。けれども普通に足を使っていたい。そんな葛藤の日が続き、ぼくは発作を起こしては氷沼くんの世話になっていた。
そんなある日。
「はぁ…」
近頃会社に行きたくない‥‥。ぼくは身支度を整えつつあった鏡の前で溜め息を吐いた。腰の辺りがシクシク痛む。気のせいか足が痺れているみたいだ。
7時40分。そろそろ出ないと始業に間に合わない。
重い体を引き摺ってマンションを出、会社まであと2ブロックの所にある信号まで来た時だった。
急にめまいがし、吐き気が込み上げてきてぼくはよろけてしまった。
口を押さえ歩道脇の壁際にしゃがみこむ。
「う‥‥」
だめだ、キモチワルイ‥‥。
耳鳴りがする。通勤に急ぐ人々は、道端にうずくまるぼくなんかには目もくれない。
本気ヤバい。吐気はするのに、朝食を食べていないから吐くものもない。
ああ‥‥会社に電話しなきゃ。携帯を取り、癖で押してしまった発信履歴の1番目に氷沼奏路の名前があった。
「氷沼、くん‥‥」
ダメだ。最近ぼくは彼に甘えすぎだ。いくら彼が友達だからといって倒れる度に呼び出しては。彼にも都合があるだろうし。
「もしもし、あ、吉田さん‥‥おはようございます‥っ、乃井です‥」
ぐるぐると、世界が回っている。
「山銀の交差点に‥‥いるん、ですけど‥‥っ」
電話の向こうは、ぼくの所属する1課の吉田さんらしいんだけど‥‥電話、遠いな。耳鳴りのせいかな。
『乃井くん、どしたの? もしかして発作起きてるの?』
吉田さんはぼくの掴みどころのない話し方で状態を察知してくれたみたいだ。
彼女の声を遠くに聞き取ってぼくは応えた。
「すみませ‥‥会しゃ、行けそうにない‥んですけど‥っ」
『大丈夫なの? 足は!?』
「大じょ‥‥。動きます」
『山銀の交差点ね? さっき氷沼くん来てたみたいだから迎えに行ってもらうね! そこにいてね!』
な、なんで氷沼くんに‥‥!?
電話が一方的に切られた。
やめてくれ。これ以上彼に迷惑かけられないよ‥‥!
課の人はぼくの体のことを理解してくれていて、今回みたいな突然の発作にも対応してくれるしとてもありがたいのだが、ぼくを助けてくれるのはいつも氷沼くんだった。いくらぼくのヘルプ役だとは言っても‥‥。
氷沼くん‥‥。
「乃井くん!」
「氷沼くん‥‥ごめ‥」
走ってきてくれたのか?
「発作起きたって? どこかぶつけたりしなかった?」
「大丈夫‥‥。足は動くんだ」
「顔、真っ青だよ。具合悪い?」
「うん‥‥ちょっと、めまいと吐き気する‥‥。ごめんね氷沼くん」
「何弱気になってるの。さあ立って。歩ける?」
彼に促されて立ち上がったけど、やっぱり目の前はぐらぐらしてる。
「うん‥‥」
「とりあえず会社まで行こう。そしたらすぐ車まわすから頑張って」
ぼくは彼に寄り掛かるようにしてなんとか会社ビルの正面玄関ターミナルまで辿り着いた。
「ここで待ってて」
ぼくはまだ立っていられず、しゃがみこむ。
また彼に迷惑をかけてしまった。
腹を括るしかないのだろうか‥‥? 車椅子になりさえすれば誰にも迷惑をかけずに済むんだし。
でも。
ぼくの足は普通に動くんだ‥‥。できれば自分の足で立って、自分の足で歩いていたい。ちょっと突発的に下半身不随になるけどすぐに復活するし、ぼくは事故の前と変わらず生活できるんだ。
ただ、いつどこで動けなくなるかわからないから‥‥不安なだけだ。
「乃井くん、」
氷沼くんの車に乗り、マンションに帰る。
こうして彼の車に乗るのは何度目だろう。両の手じゃ足りないかもしれない。
「さっきよりは顔色いいみたいだね。吐き気おさまった?」
「うん‥‥。めまいもおさまったよ。いつも本当に、すまない」
こんなに気を配ってくれて、自分のことも顧みずぼくを助けてくれる氷沼くん。きみに尽くされすぎて、ぼくは申し訳ない気持ちでいっぱいになるんだ。
「いいよ。きみの事情とぼくの関係は会社公認だし。ってか、ぼくが無理矢理認めさせたんだけどね」
「氷沼くんはどうしてそこまでしてぼくを助けてくれるんだ? 得なこと少しもないじゃないか」
そう聞いたら彼はぽかんとした顔でぼくを見たあと笑顔になって、何も言わずに前を見て運転を続けた。
なに? 今の笑顔はどういう意味?
ぼくはそれから何も言えないまま、部屋に着いてしまった。
氷沼くんは部屋の鍵を開け、中に入ってぼくのスーツを脱がせると、ベッドまで連れて行った。
促されるまま横になる。
彼は勝手知ったるキッチンに向かい、冷蔵庫や炊飯ジャーのチェックをして叫んだ。
「乃井くん! ごはん食べてないだろ‥‥!」
そしてぼくの方に寄って来て、「いつから食べてないの?」と少し怒ったように訊いてきた。
彼が怒るのも無理ない。炊飯ジャーはもちろん空っぽだし、冷蔵庫の中には水しか入ってなかったはずだ。
「‥‥昨日の昼、かな‥‥」
コンビニの惣菜パンだったと思う。
聞くや否や、彼は鬼のような形相になって部屋を飛び出して行ってしまった。
何だよ。笑ったり怒ったり‥‥っ。何なんだよ。ぼくにかまいすぎなんだよ氷沼くんは! ぼくはただ‥‥っ。
ただ‥‥。
彼に言いたくても言えない言葉が幾層にも積み重なっていく‥‥。
いつの間にか眠ってしまっていたぼくが目を覚ますと、部屋にいい匂いが漂い、テーブルにごはんが用意してあった。添えてあった置き手紙には“ちゃんと食べて体力つけて。今日はゆっくり休んで。奏路。”と書いてある。
彼は仕事に戻ったのだろう。朝の不調がうそみたいにスッキリして、おなかが空いていた。
「いただきます。‥‥うまい‥‥」
氷沼くん‥‥。
ぼくの思考が氷沼くんでいっぱいになる。ぼくはきみに何も返してあげられない。

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