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「おれ、あんたとならいいよ。でももう少し待って。この慈雨を眺めていたいんだ。おれたちがいなくなっても生命の流れがどこまでも続いていくように…」
湖に水が溜まりはじめていた。水煙にけぶる景色の中に奇妙なほど鮮明に、湖が浮かび上がる。
おれが消える、シオリさんが消える。でも悲しくなんてない。満たされるんだ。この大地と空と水に見守られて、ひとつだけ願いを叶えよう。シオリさんを癒そう。そしておれは、シオリさんに還ろう。
日が沈んだらしく、空は藍色に染まって厚い雲がさらに厚みを増して見えた。雨は小降りになり、いずれ止みそうだった。
雨水は地祇に一年分の恵みをもたらし、この村も明日からは日常に戻るだろう。おれが突然消えたらシンカたちはどう思うかな。シオリさんと旅立ったんだと思ってくれるといい。別れは言わない。
雨が止み、雲が切れてきた。上空の風が地上にも吹き及んで、木の葉とおれのほほを撫でた。すぐに雲が晴れると、空は月夜だった。
「満月…」
蒼く、清らかな光が降り注いでいた。高度の上がった月に映える大地は美しくて、出そうとする声は奪われてしまう。
湖面に映った空が、宇宙の奥行きを広めていた。
「わたしの存在をゆるしてくれ、ヒサシ」
シオリさんはどうしてそんなことを言うんだろう。
「なんで? おれはシオリさんなんだよ。あんたは自分に自分の存在のゆるしを請うの? あんたは自分に正直なだけ。おれに会って満たされるだけ。自分を取り戻すだけなんだ。それは、ゆるされていることだよ」
おれはシオリさんと向かい合った。
「あんたは当然のことをするんだよ」
おれは精一杯ほほ笑んだ。シオリさん、そんな悲しい顔をしないで笑ってくれよ、ね。
シオリさんはわずかにほほ笑んで、つないでいた手を軽く握ってきた。蒼い光が白い髪と翼をいっそう際立たせ、優美な彼の姿におれは目を細めた。
「ヒサシ…?」
「どうしよう。おれ、あんたのこと好きだ。それも普通の好きじゃない。一緒になりたい。あんたに還りたいよ」
自分の感情のコントロールがきかなくなる。
一陣の風が吹き抜けて湖面に波紋を描いた。木の葉に留まっていた雫が舞った。
シオリさんはおれの頭をそっと引き寄せ、唇を寄せてきた。おれは彼のそれを受け入れた。軽く深くやわらかく強く、吸われたり差し入れられた舌の感覚に戸惑ってしまったけど、シオリさんに触れているのがうれしかった。
本当に初めてなんだ。抱き締められることも、キスも、こんな気持ちになることさえも。おれ自身が人と深くかかわることを拒んでいたからかもしれない。
「ヒサシ」
途端におれは震えだした。
「…お、泳ぐ」
おれは体の奥から突き上げてくるなにかにおののいて、シオリさんの腕の中から逃れて纏布を放り投げ、月と星に彩られた湖に飛び込んだ。
水はほどよい冷たさで体のほてりを鎮めていった。仰向けに浮かびながら月を眺めると、宇宙を見下ろしている感覚になる。逆さに見ると、見慣れたものも新鮮な別なものに見えてくる。
おれは岸のシオリさんを手招いた。
「おいでよ、すごくきれいだよ」
シオリさんは飛んでやってきた。おれは夜空に両手を伸ばし沈めた。
「違う世界にきたみたい…。宇宙を飛んでるみたい…。気持ちいい」
シオリさんも水面すれすれに仰向けになった。
「ああ…」
「…覚悟はできてるんだ。ただ、世界がきれいすぎて」
「そうだな…」
本当にきれいな夜だった。
シオリさんは水に入らないのかな。苦手なのかな? そんなことを思っていると、シオリさんはくるっと体勢を起こして腰のあたりまで水につかった。まるで水面に座っているように見える。白い髪が風になびいていた。そして目が合った。
「やはり、横になると落ち着かない」
おれは吹き出してしまい、あやうく溺れるところだった。シオリさんてば、真顔で言うんだもん。
「はー危なかった。あんたって不思議だよね。おれ全然怖くないんだ…。もうすぐ消えちゃうっていうのに」
なぜか心はやわらいでいる。シオリさんがいるから安心しているだけだろうか。それともおれ自身がその選択を願っていたのだろうか。今まで生きてきた世界に未練を感じないおれは薄情だろうか。
シオリさんの存在は、おれが生きてきた十八年間を吹き飛ばして真っ白にしてしまった。もう遅い。もし彼に出会わなければ…という未来は考えられない。おれの未来のすべてを彼に委ねたいと、思ってしまったんだ。
ふいにシオリさんはおれを水から引き上げて横向き膝に乗せ、抱きしめた。おれはシオリさんの肩に乗せるように頭を傾げた。二人とも足だけ水につかっている。
「しばらく、わたしたちは景色の一部になろう」
おれはうなずいた。二人でこの夜に溶けていよう。清廉された夜の帳に包まれよう。
シオリさんはふわりと浮き上がった。足先からしたたる雫が湖面に無数の波紋を作り出す。吹く風が涼やかに濡れた体を撫ででいく。
おれはシオリさんの体温を感じていた。おれの熱も伝わっているだろうか。
生きているんだ。シオリさんは生きてきたんだ。羽衣を失った天女のように、聖域に帰れずに、おれを…羽衣を…さがしていた。そうだ。おれはシオリさんの羽衣、シオリさんのもの。それがおれ。おれの存在理由。
「おれの存在理由はあんたを満たすこと…それが今のおれの望み。おれにはそれができるんだ。うれしいな」
「おまえの思い、受け取った」
シオリさんはおれの頭を抱き寄せた。
「シオリさん、岸に行って」
月が地平線に呑まれようとしていた。おれたちはレインツリーの下に降り立った。闇が薄れ、空が明け染めはじめている。もうすぐ新しい太陽が昇る。その清らかな光の中で…おれたちの生命を解放しよう。
おれはシオリさんを見つめた。
「ヒサシ、わたしに還ってくれてありがとう。こんなに幸福な時はない」
シオリさんはおれの髪に口付けた。夜の星を呼び戻したように、髪が輝きはじめた。
「おれもすごく幸せだよ。見つけてくれてありがとう、シオリさん」
おれはほほ笑んだ。シオリさんもやわらかく笑んだ。そこにはもう儚く悲しいシオリさんはいなかった。
地祇の言い伝えの最後の一節の意味がふと閃いた。『安そそぎかえる』…シオリさんの孤独を満たす安らぎ、おれがシオリさんに還る…。ホッとするで当たってたんだ。
「あんたの願いを叶えるよ」
シオリさんはおれを抱き寄せて舞い上がった。高く、ずっとずっと高く。息が苦しくなるくらい。
上空のおれたちは陽に照らされた。太陽はとてもまぶしく大きく見えた。
「レインツリーの幹に陽が差したら…」
おれはうなずいた。そしてシオリさんにしっかりとしがみついた。
レインツリーの梢に陽が差していた。
シオリさんはおれの肩に口付けた。肩に紅く刻印が浮き出て、シオリさんがなにかを囁くと、刻印は蒼く変色して空気に混じるように蒸発して消えてしまった。
「なにしたの? 模様出たのに痛くなかった」
「聖域への誓約を破棄した」
ああ、最期なんだね…。
シオリさんの深紫の瞳は優しかった。おれを深く大切にしてくれているのが感じられた。
「…もう、あんたから離れない」
「おまえを離しはしない…」
レインツリーの幹に陽光の幕が下り、大地は朝に清められていった。
おれたちは見つめあい、最後のキスをした。最期の、魔法のキスをした。
目を閉じる瞬間、蒼い光に包まれるのが見えた。
目の前には美しい天使と、彼の瞳に映った心安らかなおれがいた。
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